瀬田浦の埋め立ては、昭和36年(1961年)から滋賀県開発公社により着工され、同38年度末に32㌶の埋め立てを完了し、玉野浦・萱野浦の新地が誕生した。当初、レジャー施設として瀬田レークサイドゴルフ場が開業したが、その後は大型店舗や住宅地として大きく変化している。
昭和30年(1955年)台になると、日本は高度経済成長期を迎え、下流域の水需要を琵琶湖のダム化によって賄おうとする琵琶湖総合開発がもちあがった。が、琵琶湖のダム化は地元滋賀県が受け入れず、結局昭和47年(1972年)に、利水・治水・保全を3本柱とする琵琶湖総合開発計画が成立した。単なる水資源開発とは異なり、 ①開発の成果を琵琶湖周辺地域でも享受できるようにすること、 ②事業費用を下流自治体も負担すること、 ③近畿圏だけでなく、国家的事業とすること、が確認された。当初は10ヶ年計画だったが、10年延長され、更に5年延長されて、結果的には25年間の大事業となり、総額1兆8,635億円の費用が投入されて、平成9年(1997年)に完了した。
湖周道路(夕照(せきしょう)の道)
琵琶湖総合開発計画により設定された琵琶湖周遊道路で、昭和47年(1972年)に瀬田橋から萱野浦を通って長沢川橋までが開通した。昭和58年(1983年)には矢橋帰帆島以北にもつながり県道近江八幡・大津線が開通した。これにより大型店舗やホテルが開業し、瀬田浦の景観は一変した。